嫌な自分を観続ける【止観瞑想】エフィカシー下がってもやめられない

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半年くらい前に止観瞑想に取り組んでみた。

まずは止観瞑想というのを説明しないと意味不明だな。

止観瞑想というのは、ただ自分が何を考えているのかを、じっと見続けること。

座って骨盤を立てて、瞑想中して「今自分が考えていること」を俯瞰して耳を傾ける。

一般的に言われているような、「無心になって」というものではなく、自分の意識の中に意識を集中するような状態です。

例えば、

あ!今頭の中に「うるせーなクソジジイ」という言葉が浮かんだ!

「お腹すいたなー」という言葉が浮かんできた!

ということを、ただじっと観察する。
慣れてきたら、瞑想中だけではなく、普段の生活中も常に観察する。

こういうものです。
こんな簡単なことなんだけど、いまの自分にとってはかなりの苦行。

辛い。
今すぐやめたい。

なぜ止観瞑想をやめたいのか

僕は自分自身の性格を、結構良いと思っていました。

協調性がなくて、周りに気を使うことが上手ではないけれど、友人も多い方だと思うし、気があう人とはすぐに仲良くなれる。

まぁ性格は良い方なんじゃないかな〜と思っていました。

止観瞑想というのは、どんな効果があるのかもよく知らないで、勧められたのでとりあえずやってみた。

6ヶ月前に止観瞑想をした時は、まったくなんの効果も得られず。

多分2週間くらい、ちょっとしたスキマ時間を使って取り組みました。
でも、なんとなくやらなくなっておしまい。

その後6ヶ月の間に2回くらい、思い出したように1週間くらい取り組んだ。

そして、6ヶ月後の現在は、いつの間にか自分の頭の中に浮かんできた言葉が、冷静に観られるようになっていた。

観えるようになってしまうと辛い。。。

止観していると自分の頭の中に、どれだけ「嫌な言葉」が浮かんでくるかが良く観える

改札でおじいさんがパスモで引っかかる
 → 「おっせーなージジイ!」

すごい車に乗っている人を見て「すごいね!」と言いながら
 → 「どうせ成金だろ。バカのくせに」

銀行でこちらはペコペコ頭を下げている状態
 → 「こいつ仕事できなそう。こんなバカにお願いして意味あるのか?」

もう、全部は思い出したくもない。。。

確かに僕は聖人君子ではない。

どちらかといえば、昔から口は悪いし、いつも正しいことをいう人ではなかった。

それでも、普段こんな言葉ばかりが頭の中に浮かんでくる自分にうんざりする。

嫌な自分を見続けるとエフィカシーが下がってよくないんじゃないか?

止観はだだ自分の考えていることを、止まって観るだけで良いとされている。
「嫌な自分」をただ観続けるだけ。

本当であれば、こんな「嫌な自分」を修正してまわりたい。

でも、この「嫌な自分」は自分が考えるよりも前に浮かんできてしまうものだから、手の加えようがない。
黙って観ているしか手段がない。

そんな治したくても治せない「嫌な自分」を毎日観ていると自分が嫌いになってくる。
「俺ってほんと性格悪いよな〜」と思うとエフィカシーまで下がってくるように感じる。

これって、自分のエフィカシーを下げるような手段なんじゃないか?

エフィカシーを下げてしまうような、間違った手段なんじゃないか?

と思えてくる。

かといって、今日から止観はやめた!と思っても、勝手に観てしまってやめられない。

これが、ついさっきのブログを書こうと思ったところまでの自分の悩み。

悩みを文章化したことで悩みの輪郭がみえて解決した

やっぱ自分の頭の中をテキスト化するのは大事なことだ。
テキスト化するには、悩みにしっかりと向き合って、何が問題なのかを一つ一つ明確にしていかなければならない。

こうして悩みの輪郭が見えてくると、問題の解決方法が自然に見えてくる。

この記事を書いていて、至った考え方は。。。

止観は、今まで自分が気づかなかった「嫌な自分」をはっきりと観せてくれた。

「嫌な自分」を観て一旦はエフィカシーが下がるかもしれない。

でも、今から止観をやめることはできない。

嫌でも自分と向き合うしか選択はない。

今はエフィカシーが少し下がっても仕方ない。

そのうち自分の中で解決できるようになるだろう。

あがきながらも、このまま信じて進み続けるしかない。

こんな考えに最終的には落ち着いた。
モヤモヤとしていたものがとれてスッキリ!

問題、悩みを認識して、文章に吐き出すという作業はとても大切だと再確認できた!

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